vol.6 クオバディスの創業者ドクター・ベルトラミ クオバディス誕生秘話

「芸術と産業博覧会」の名誉賞

「芸術と産業博覧会」の名誉賞

ミニスターの数年後には、21cm×27cmのプレジデントを世に出したドクターは、1960年に、10cm×15cmのビジネスを考案するが、その誕生の経緯にも独特のものがある。 「自分で紙の質を選んで、サイズも考え、必要な枚数を揃えてプロトタイプを作る。このモデルは、背広のポケットに入るのが最大の目的だから、プロトタイプを持って、あちこちの洋品店へ行っては、試着する振りをして、どんなポケットでも入るようにサイズを調整したんです。」普通のメーカーなら、製紙会社の持つ定番サイズの紙を使うところを、ドクターは、自分に必要なサイズを特注で造らせたのだ。

こうして、10年間でトータル売り上げが40万部に達した。ほぼ時を同じくして、ルーヴル博物館の名誉賞も受賞している。「ルーヴルのディレクターが電話してきて、サンプルを送れという。ルーヴルの中に大きな売店があるのを知っていたから、そこに置くのにサンプルを寄越せといったんだと思って、普通のビニールカバーのサンプルを送った。そうしたら、えらく怒って電話してきて、『大変な賞に選ばれるかどうかなのに、どうしてもっと綺麗なのを送って来ないのか』ってやられて、それで初めて訳がわかった。もちろん、今度は本革カバーのかかった最高の製品を送りましたよ。」

これは、ルーヴル博物館が、20世紀前半に於ける最も偉大な発明品を三つ選んで賞を贈るという企画で、シトロエンのDSモデルとIBMのタイプライターの印字ボールが、同時に選ばれた。この話の時ばかりは、ドクターが如何にも誇らしげに頬をほころばせた。

1971年、ナントへ

売り上げが伸び、従業員の数も増えてくると、マルセイユのアトリエでは手狭なのが、誰の目にも明らかになった。ちょうど、フランスの地方都市が、競って郊外に工業団地を造り、企業の誘致を図っている時期だった。ドクターも、そうした自治体約100カ所に、土地代金、インフラ、税法上の優遇措置等の問い合わせをし、十カ所を実際に回って、最終的にナント郊外のカルクフーを選んだ。

誘致条件としては、同じブルターニュ地方でも、北西の外れにあるブレストの方がずっと良かったのに、ドクターは、あえてナントを選んだ。 「幾ら条件が良くても、ブレストはパリから離れ過ぎている。それに第一、あそこには高等教育機関が存在しない。ナントなら大学もあるし、幹部社員の子弟教育のことも考えて、ためらわずにナントを選んだ。市の方でも、工業団地にすぐ電話回線を引いたり、マルセイユから移住してくる従業員のために、優先的に低家賃住宅の手配をしてくれて、大いに助かった。」
パリからの距離云々の問題はあるとしても、普通の企業家だったら、移転の際に、社員の子弟教育の問題を判断基準に置くだろうか。
そして、ことはこれだけに限らないのだ。

「人間は、物でも番号でもない。」

ドクターを長年支えてきたカルラ夫人と共に

充分な広さのある新工場の一部に、ドクターは、カフェテリアを設置する。調理人を雇い、従業員がごく安い料金で食事ができるようにし、各種飲料の自動販売機も置いた。

「朝飯を喰わずに働きに来てしまう従業員もいる。腹ぺこで仕事をしていたのでは、事故にも繋がりかねない。だから、就業1時間50分後に10分間の有給の休憩時間を設け、食事をしてこない連中は食事ができるようにした。労働条件、待遇を他より良くする。そうすれば、気持ちよく働いてもらえるし、誰も辞めたりはしない。」

古いクオバディスのダイアリーを眺めてみると、ナントに移転以降も、ドクターが引退した1997年に印刷された1998年用までは、最初のページの本社所在地がマルセイユになったままなのが分かる。ナントに移転した際に、多くの従業員は移住してきたけれど、家族の事情等でマルセイユから引っ越すことができない従業員も存在した。そうした人達のために、ドクターは、あえて本社をマルセイユに置き続け、給与計算と買掛以外の経理部門、財務部長を残したのだ。

近頃の新自由主義とやらに凝り固まった経営者だったら、感傷趣味に溺れて、何と非効率的なことをするのか、というかもしれない。しかし、ドクターは、ハッキリ言い切った。

「人間は、物でも番号でもない。」

今回のインタビューでは、ドクターの他にも、ナントに移転の直後からずっとクオバディスで働き、ドクターとの付き合いも長かったという人物から話を聞いた。

「社員が会いに行くと、座らされる椅子が、教会にあるお祈りを捧げる時の椅子みたいに背が低い。いきおい、ドクターの上から目線を浴びることになる。確かに、時に激昂して怒鳴り散らすこともあった。でも、決して長引かなかったし、根に持つこともなかった。彼が誰かを頸にしたり、また、誰かが辞表を叩きつけたりも、私の知る限りでは一度もありませんね。」

やや家父長的匂いは漂うかもしれないけれど、ドクターの口にした「人間は、物でも番号でもない。」という言葉に表れる、人間的な温かみ。それを感じるからこそ、誰一人として辞めたりしなかったのだろう。

そして、これこそが、最初に2~3000部しか売れなかったクオバディスが何100万部に到達した本当の理由に違いない。

辻 啓一(つじ けいいち)
写真家。1948年生まれ。77年、日本企業駐在員として渡仏。
89年よに写真家・著述家として独立。
著書に『パリの通りの物語』(中央公論新社)、『ブルゴーニュの黄金の丘で』(ホーム社)、『フランスの「美しい村」を訪ねて』(角川新書)、
『親父メシ』(ホーム社)など。

写真:クオバディスダイアリーコレクション クオバディスダイアリーコレクション

クオバディスでは、アジェンダプランニングダイアリーをはじめ、機能的なフォーマットを多数展開しています。サイズ・カバーバリエーションも豊富なラインナップから、あなたのライフスタイルに合わせた1冊をセレクトして頂けます。プライベートからビジネスシーンまで、クオバディスダイアリーが、よりスマートにスケジューリングをサポートします。

商品の詳しい情報はこちら