vol.6 クオバディスの創業者ドクター・ベルトラミ クオバディス誕生秘話

若き日のドクター

ドクターは、1917年、ボルドーで生まれた。幼くしてマルセイユに移り、親子代々医者の家柄で育った。父親は、フランスの医学部でその部門では最初の教授となった口腔科専門医、叔父さんも産婦人科の医者だった。

子供時代の記憶はほとんどないとおっしゃる。では後年のアジェンダ・プラニングの発明の予兆となるようなことはと訊くと、「それもない。強いていうなら、一人乗りの木製カヌーを自分で考案して、すべて手作りで作ったことがあるだけ。」ならば、学校はと畳みかけると、「とにかく勉強が嫌いでねえ。やっと真ん中くらい。それで、パリのエコル・アルザシエンヌに寄宿生として放り込まれた。試験みたいなものが大嫌いで、割り算はいつまでたってもできないし、単語の綴りも目茶苦茶で、ずっと後になって手紙を書く必要に迫られた時は、いつも秘書に綴りを教えてもらわなければならなかった。」そう答えるドクターの目は、あたかも悪戯小僧のように笑っており、とうていにわかには信じ難い。エコル・アルザシエンヌとは、私立の名門校であり、当時は今より更にレベルが高かったはずだ。

実際には、どこへ行っても優等生だったとしても、それをそのまま答えたのでは、会話としてはちっとも面白くない。そこで大きな脚色を施したと考えるのが正解だろう。エコル・アルザシエンヌを卒業し、無事バカロレアも取得したドクターは、マルセイユに戻り、医学部に入学する。代々医者の家系なので、何の疑問も持たずに決断した。

レジスタンスへ

医学部が順調に進み、博士論文審査直前まで行った時に、第二次大戦が勃発する。

志願して軍の補助医に任命されたものの、フランスは呆気なくドイツに降伏。これに我慢がならなかったドクターは、レジスタンスに加わり、マルセイユの地元で英国のための情報収集活動を始める。 「様々な情報を集めては、無線で送信する。でも、これは、ドイツ軍に逆探知される危険が絶えず伴う。居場所を頻繁に変えるのを怠り、捕らえられて銃殺された仲間も少なくない。」そう語るドクター自身も、ゲシュタポの網にかかり、大戦最後の2年間をブッヘンヴァルト強制収容所で過ごすことになった。その間、想像を絶する体験もしたようだが、その点については、余り触れたくない様子だった。

この戦争体験を通じて、彼が人間性の暗黒の部分を目の当たりにしてしまったのは疑いない。 しかしドクターは、そうした価値観の崩壊にも陥らず、企業家として立った時にも、後に詳述するが、拝金主義者となることもなかった。この事実だけでも、畏敬の念を禁じ得ない。また、リスクを恐れぬ強靱な精神の持ち主であることも分かる。

クオバディスの製品化とコカコーラ

マルセイユのアトリエで使われていた古いプレス機

終戦後、父親が1920年に設立した歯科医療センターの院長におさまり、使っているダイアリーへの不満が、アジェンダ・プラニングの出発点となったのは冒頭に述べた通りだ。だからといって、所持するクオバディス社を使い、自分で考案したダイアリーを印刷・製本すれば、すぐさま思い通りに売れるとは、当然ながら行かない。たまたま知り合いにコカコーラのお偉方がいたので、ドクターは、年末にお得意に配るプレゼントとして、右端と日曜のくる部分に、コカコーラのロゴと瓶を入れたダイアリーはどうだろうと持ち掛けた。

「すぐにアイデアを気に入ってくれて、使う紙や表紙を向こうが考えて指定してきた。つまり、クオバディスは、コカコーラのノヴェルティーとして出発した訳ですな。」

この一件で自信をつけ、翌年には自前の製品を造り、まずは、マルセイユの文具店へ売り込みを掛けた。しかし、冷たいあしらいを受け、かろうじて売れたのは2~3000部に過ぎなかった。厖大なシェアと販売網を持つメーカーがダイアリー業界を牛耳っていたことと、どんなに使い勝手が悪かろうとも、ダイアリーとはこうしたものとの固定観念が、強固に根を張っていたからだ。

この最初に世に出たクオバディスが、ミニスターと呼ばれる16cm×24cmのタイプだった。「始めは、紙の質も表紙の質もあまり良くなかったなあ・・・。」

現在のクオバディスダイアリー工場の様子

失業者による販促活動

先程、起業家の条件として自由な発想を挙げたけれど、この時にも、ドクターの発想力がものをいった。
始めたばかりで資金も潤沢ではなく、金の掛かる宣伝活動はできない。しかし、何とかして製品を知らしめないことには、販売が伸びない。だったら、どうすればいいか。

彼は、新聞に失業者募集の広告を載せ、アルバイト要員を集めた。「一人当たり5000~10,000部のクオバディスの宣伝のチラシを渡して、この町のこの界隈に配れ。ちゃんと配ったかどうかを、後で視察員が見届けに行くからなって、送り出す。配るべき界隈は、あらかじめ電話帳で調べて、ダイアリーを扱う文具店や本屋の多い場所を選んである。その結果、2、3人でもチラシを持って文具店へ行き、『これは置いてないのか』とやってくれれば、文具店は慌てて注文してくるって寸法です。これが大当たりで、安上がりで効果も絶大だから、十年近く続けましたか。」

こうして順調に売り上げが伸び始めると、紙の裁断、印刷、製本とすべて下請け任せにしていたのでは品質管理が困難となり、3年後には自前のアトリエを構えた。